
角田光代、西加奈子、伊藤比呂美、荒井良二、竹中直人――。原宿にある喫茶店「シーモアグラス」の開店30周年をきっかけに、お店に縁のある作家や文化人たちが“喫茶”について書き下ろすエッセイアンソロジー『喫茶店のはなし。』(シーモアグラス 坂本織衣:編/筑摩書房)が、2026年9月28日(月)にリリースされた。
「シーモアグラス」は1996年9月、原宿・明治通り沿いのオフィスビル地下商店街に開店した名物喫茶。10席ほどの小さな店内には絵本がぎっしり詰まった本棚があり、お茶を飲みながら好きな絵本を読むことが可能だ。さらに店内の壁では絵本の原画展や本の出版記念展などがたびたび開かれ、多くの作家や絵描きが行き交う場所となっている。ちなみにお店の名前は、サリンジャーの短編『バナナフィッシュにうってつけの日』に登場する少女の台詞に由来するという。
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そんな同店と縁のある人々が、喫茶店やコーヒー・お茶にまつわる思い出やエピソードを綴り、一冊の本にまとめたのが『喫茶店のはなし。』である。
エッセイに加えて、店主が大切にしている詩や歌詞も収録されており、巻頭には谷川俊太郎の詩「カフェ」、巻末には忌野清志郎が歌った「君が僕を知ってる」の歌詞を掲載。装画は絵本作家の荒井良二が手がけ、帯にはシンガーソングライターの矢野顕子が「街の漂流する者たちはここでしばし休み、息を整えてからふたたび歩き出してゆく。」と推薦の言葉を寄せている。
そして特筆すべきは、24名におよぶ執筆陣の顔ぶれだ。小説家の角田光代や西加奈子をはじめ、詩人の伊藤比呂美、ライターの武田砂鉄、絵本作家のミロコマチコ、文筆家でイラストレーターの金井真紀ら、様々な分野で活躍する人物が集結。さらに俳優の竹中直人や行動学者の細馬宏通、絵本の評論や翻訳を手がける広松由希子に加え、書店や喫茶店を営む人々のコラムも収録されている。
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■武田砂鉄が喫茶店で楽しむ、0.5秒の間
これだけ多彩な顔ぶれなら、当然ながら「喫茶店」に寄せる思いも一様ではない。例えば作家の角田光代にとって、喫茶店は「余裕の象徴」だ。“生活”が必要に応じた線で結ばれているとするなら、“喫茶店”は暮らしの中の読点。慌ただしい毎日にひと呼吸を置いてくれる場所として、その魅力を綴っている。
一方、武田砂鉄が明かす喫茶店の楽しみ方も興味深い。武田は喫茶店でよくケーキを注文するのだが、ケーキを頼む客には見えないのか、注文を受けた店員が返事をするまでに「0.5秒」の間が生じることがあるという。もちろん、店によっては間髪入れずに返事が返ってくる場合もあり、その時は武田の「負け」。ある時にはメニューを出されるタイミングで季節限定のケーキを勧められ、完全敗北したこともあるそうだ。そんな店員との小さな駆け引きを、武田は日々楽しんでいるのである。
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■著名人たちが語る、それぞれの「喫茶店」の思い出
そのほか、伊藤比呂美のコラム「喫茶店と私、(ざっくり)70年」では、子ども時代に父と入った暗い喫茶店を起点に、およそ70年にわたる喫茶店との付き合いを回想。広松由希子の「はたちの止まり木」では、20歳の春に中野の名曲喫茶でアルバイトをした3カ月間が綴られている。
高校時代から喫茶店に通っていたという竹中直人は、「ぼくと思い出の喫茶店たち」と題してこれまで訪れた店の記憶を振り返る。「アイスコーヒー始めました。」と書かれた張り紙にクエスチョンマークを書いてイタズラした日のことや、当時の彼女と訪れた喫茶店での苦い思い出などを綴った後、最後に登場するのが「シーモアグラス」だ。
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竹中のお気に入りは、同店の生姜入りチャイ。その魅力について「いろんなこと、どうだっていい」「いやなやつも、きらいなやつもどうだっていい」「そんな気分にさせてくれる」と語っており、「一口飲んでみて欲しい」と読者に呼びかけていた。
■『喫茶店のはなし。』にはイラストや漫画も!
また、同書に収められているのはコラムだけではない。絵本や漫画を思わせる作品も多数収録されており、喫茶店をめぐる様々な物語や情景を楽しむことができる。例えば漫画家、イラストレーターのカシワイが描く「くじらのせなか」では、仕事や用事に追われながらも、喫茶店で羽を休めるひとときを、すっきりとした線とやわらかな筆致で描いている。
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絵本作家・出口かずみの「エレベーターのある喫茶店」は、作者の愛猫・小八を思わせる猫の客と、鳥や小人の店員たちが織り成す小さな物語。まるでコーヒーを飲み終えた時のような、ほっこりとした気持ちにさせてくれる。
ほかにも、ひろせべにのイラスト「シーモアグラスの日々」には愛らしい表情の動物たちがいっぱい。ファンタジックな世界観でありながら、眺めているとシーモアグラスの温かな雰囲気が伝わってくる。思わず実際の店を訪れてみたくなるような一枚だ。
■客席からは見えない、店の裏側のドラマ
先述した通り、『喫茶店のはなし。』には書店や喫茶店を営む人々のコラムも収録されている。著名な作家や文化人だけでなく、店を営む側の視点に触れられるのも、同書ならではの面白さだろう。
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新宿「BEER&CAFE BERG」の副店長・迫川尚子による「この場所にふさわしい店」では、駅の一角で36年にわたって続いてきた店の歩みが綴られている。一方、荻窪「本屋 Title」の辻山良雄が語ったのは、書店に併設されたカフェのとある常連客について。その客は70代後半の男女で、ある時からしばらく姿が見えなくなったという。そして、再び来店した日の出来事が静かな余韻を残す。
村田龍一は、閉店した喫茶店の家具や食器を引き取って販売する「村田商會」の創業者。「まっ茶色の喫茶店」では、消えていく店の記憶を次へつなぐ仕事について紹介している。神保町の老舗「さぼうる」で働く伊藤智恵は、「ドタバタ」というタイトルの通り、先輩たちの素早い動きに圧倒された新人時代をユーモラスに回想。客として座る席からは見えない、店の裏側のドラマが伝わってくる。
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そして店を営む書き手の中には、もちろん「シーモアグラス」の店主・坂本織衣も含まれている。坂本のエッセイ「きょうも喫茶店。」によれば、初めてのアルバイト先は、高校1年生の時に働いた阿佐ケ谷の喫茶店「ぽえむ」。そこには、1975年に山形から上京した絵本作家・荒井良二も通っていたそうだ。
坂本はその後、雑貨店での勤務やアルバイトの掛け持ちを経て原宿で店を開くことに。家族そろって大ファンだったことから、店の看板は荒井に描いてもらったという。そうしたオープンまでの道のりや、店に込めた思いがつぶさに綴られている。
「はじめに」で坂本は、店の扉を開く代わりに、本のページを開いて訪れてほしいと読者に呼びかけていた。原宿の地下で30年、客を待ち続けてきた小さな喫茶店――。同書を通して作家たちの記憶に触れたあと、実際に「シーモアグラス」を訪ねてみるのもよさそうだ。
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