※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2026年10月号からの転載です。

通り魔から妊婦をかばい、殺された春臣。婚約者だったむつみのもとに、彼の弟・真央が転がり込んでくる。ふたりは春臣が信条としていた「エディ・ウッド・ゴー」をなぞるように、日常のなかで「善いこと」を実践してゆくが――。
「担当編集者さんとは当初、Netflixで実写化されるような、どエンタメのバディものにしたいね、と話していました。それと、『世界ふしぎ発見!』で知ったエディ・アイカウについて、いつか扱いたいと思っていた。二つが結びついたのが出発点でした」
エディ・アイカウは、ハワイの伝説的なサーファー兼ライフガードだ。1978年、伝統航海カヌー〈ホクレア号〉が転覆した際、救助を求めるために彼は荒れ狂う海へサーフボードで漕ぎだした。その後、乗員は全員救助されたが、エディだけは帰らなかった。危険を恐れず、誰かのために行動する彼の生き方は、「エディなら行く」を意味する“Eddie Would Go”という言葉とともに今も語り継がれている。
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「一番勇敢な行動をした人だけが犠牲になった結末に、やりきれなさを感じたんです。だけど、もし私が船に乗っていたら、救助を呼びにいく彼に、危険だから行かないでとは言えない。藁にもすがる思いで『危ないけど、お願いします』と頼ってしまったはず。そんな、動けずに行かせてしまった側、残された人たちを書きたくなって」
その思いから生まれたのが、むつみと真央だ。年齢差があり性別も異なるけれど、どこかウマのあう彼らは、春臣を間に挟んで友人にも似た関係にあった。
「以前から、三人組の一人が欠けたあとの残された二人の関係に興味がありました。むつみと真央は、男女のバディだけど恋愛になるとは限らない仲にしたかった。彼らの間には大きな括りでの親愛感情があるけれど、それが家族愛なのか恋愛なのか、本人たちにもわからない。そういう余白を残しておきたかったんです」
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これまでにも佐原さんは家族や友人、恋人といった既存の言葉には収まりきらない二人組を生んできた。義理の姉弟がブラジャーをきっかけに歩み寄る『ブラザーズ・ブラジャー』、詐欺師の叔父と暮らす少女とその被害者が旅にでる『ペーパー・リリイ』、高学歴無職女性と不登校の男子高校生が文通屋をはじめる『鳥と港』。いずれもバディながら、ベースとなる関係性はほぼ他人だ。
むつみと真央もまた、春臣という不在を介して名前のない関係で結ばれている。けれど、同じ喪失を分かちあえるわけではない。
「同じ人が亡くなっても、その死の受けとめ方は(その人との)関係性によって異なります。同じような傷を負うと、人はつながろうとする。でも、むつみにとっての春臣と真央にとっての春臣が“同じ”ではない以上、いつか必ず、ずれが生じます」
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共有しているようで、共有できない春臣の死。ふたりを結びつけたはずの喪失は、その受けとり方のずれによって、のちにふたりを引き離すことになる。
高波があれば凪もある波のような小説にしたい
語り手であるむつみは、周囲から“武士のよう”と評されるほど毅然とした人物だ。急病人を見かければ必ず声をかけ、仕事に遅刻してでも介抱する。一方で、婚約者を亡くした“悲劇の人”として見られることを、敢然と拒む。そんな強さと分別を備えた女性を主人公に据えた背景には、佐原さん自身の関心の変化があった。
「今回は精神的に成熟している女性の一人称を書いてみたかった。むしろ真央の方が、これまでよく書いてきた不安定さを残す、大人と子どもの間にいるキャラクターに近いですね。その真央の相手として、同じような人物を置くのか、それとも対照的に成熟した人にするか。そう考えたら、今の自分は後者に興味があると気づいたんです」
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けれど、理知的で動じないように見えたむつみも、物語が進むにつれて少しずつゆらぎだす。本人はその変化に気づいていない。しかし一人称の語りの端々から、読者には伝わってくる。
「連載中、担当さんとはずっと“波のような小説にしたい”と話していました。高波のときもあれば、凪のときもある。それは心情だけではなく、登場人物たちの関係や考え方、行動も含めて。すべてが常にゆらゆらしているような読み心地にしたかった」
書くうちに当初の想定から大きく変わった人物もいる。むつみの職場の同僚で、無遠慮な言動で彼女を苛立たせる松下だ。
「最初はめちゃくちゃ嫌な男になる予定でした。むつみに好意を伝えて断られると逆恨みして、彼女からハラスメントを受けたと上司に訴える。でも第一回を書いた時点で、彼はそんな立ち回りをする人じゃないな、と感じたんです。そこから予定とはまったく違う人物になりました。変えてよかったです(笑)」
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むつみに無造作に接してくる、敢えてのノンデリ松下。彼の存在がタフな物語にほどよい軽みを添え、かつ恋愛小説としての濃度も上げている。松下、貢献!
利他のあとに残るものは 残された者は
人を助けて命を落とし、世間から〈英雄〉と称えられた春臣。しかし、その英雄的な死によって覆い隠されていた別の顔が、やがて見えてくる。
「善い行いをした人が、あらゆる面で善い人とは限らないですよね。妊婦をかばったことと、その他のモラルは別のものです。でも英雄的な死を遂げた人には、どうしても全人格的な善性が結びつけられてしまう。それもまたラベリングで、そこを少し剥がしたかった」
作中の現在に、春臣本人は登場しない。その姿は、むつみの回想や、真央をはじめとする人々の語りをとおして立ち上がる。
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「春臣はあえて実体をつかみにくい人にしました。むつみの記憶のなかにしかいない、ある種、幽霊のような存在ですね。断片的な情報から、読む方それぞれのなかに春臣像ができあがるように。でも、それもだんだんおぼろげになるように。むつみが春臣からじょじょに遠ざかっていく感覚を、読み心地としても伝えようとしました。そこはほんとうに意識しましたね……難しかった」
本作で佐原さんが描こうとしたのは、利他そのものよりも、利他的な行為のあとに広がっていく“余波”だった。
「コロナ禍以降、利他について書かれた新書や人文書が増え、私自身も興味を持って読んでいました。ただ、利他とは何かという問いを立て、それに答える小説ではなく、利他が起きたあと、その周辺で何が起こるのかを書きたかったんです。利他によって助かる人がいれば、取り残される人もいる。残された側に与える影響、罪悪感。その両方を拾っていったら何が見えてくるのか。書きながら私自身もゆれたし、ずっと考えました」
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ときに善意は人を傷つけ、誰かを置き去りにする。それでも本作の登場人物たちは誰かの行動に触発され、べつの誰かに手を差し伸べる。そうして利他は絶望を追いかける──。そう伝えると、佐原さんは「すごくいい言葉ですね」と笑う。
「私は、担任した生徒たちが卒業するのを見守るような感覚で登場人物を書いています。直接幸せにはできないけれど、幸せになってくれたらいいな、と。今回はこれまでの作品よりも介入して、この物語の人たちを助けたいと思いながら書きました」
取材・文:皆川ちか 写真:種子貴之
さはら・ひかり●兵庫県生まれ。2017年「ままならないきみに」でコバルト短編小説新人賞、19年「きみのゆくえに愛を手を」で氷室冴子青春文学賞大賞を受賞。後者を改題・加筆した『ブラザーズ・ブラジャー』でデビュー。家族・友情・恋愛のあわいを繊細、かつ軽やかに描く作風が多くの読者に支持される。近著に『リデルハウスの子どもたち』がある。
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『夜の海をゆく人よ』
(佐原ひかり/幻冬舎) 1760円(税込)
婚約者の春臣が、妊婦をかばって通り魔に殺された──。残されたむつみは春臣の弟・真央とともに暮らしながら、日々小さな善行を積み重ねる。むつみに興味を抱く同僚・松下、真央に恋する「募金ちゃん」。さまざまな人たちと関わるなかで、ふたりは同じ人を失っても、その喪失は同じではないことを知っていく。善行がもたらす“余波”の先にあるものは?
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