村上春樹の小説を読んでいると、いつの間にか現実とは少し違う場所に立っていることがある。月が二つ浮かぶ東京、高い壁に囲まれた街、羊男が暮らすホテルの暗闇――。しかも厄介なのは、そこへ至る扉が特別な場所にあるとは限らないことだ。階段を下りる。ホテルの廊下を歩く。誰かを探す。そんな日常の延長から、世界はふいに姿を変える。村上春樹作品のなかでも、とりわけ“不思議な世界”に迷い込む感覚を堪能できる5作品を紹介する。
「羊男が暮らすホテル」「月が二つ浮かぶ東京」。村上春樹の“不思議すぎる世界”5選
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
ひとつの小説のなかに、まったく異なる二つの世界が存在する。計算士である「私」が暗号処理を請け負う近未来的な東京を描いた「ハードボイルド・ワンダーランド」と、高い壁に囲まれ、人々が影を切り離して暮らす「世界の終り」。二つの物語は交互に語られ、最初は無関係に見えた世界が次第に奇妙な呼応を始める。地下には「やみくろ」と呼ばれる得体の知れない存在が棲み、壁の内側では一角獣が暮らしている。説明を聞けばファンタジーのようだが、読んでいると妙に静かで現実的なのが怖くもおもしろい。「二つの世界はどうつながるのか?」という大きな謎があるため、不思議な設定だけでなく物語を追う楽しさも抜群だ。
不思議世界度 ★★★★★/謎を追いたくなる度 ★★★★★/村上ワールド没入度 ★★★★★
『1Q84』
高速道路で渋滞に巻き込まれた青豆は、タクシー運転手に勧められ、非常階段を使って首都高速から地上へ下りる。しかし、それを境に世界にはわずかな“ずれ”が生じ始める。そして夜空を見上げると、そこには二つの月が浮かんでいた。青豆は自分が入り込んだ世界を、1984年ならぬ「1Q84年」と呼ぶ。一方、小説家志望の天吾は、少女・ふかえりの奇妙な物語『空気さなぎ』のリライトを引き受け、「リトル・ピープル」をめぐる不可解な出来事へ巻き込まれていく。最大の魅力は、世界が一瞬で異世界へ切り替わらないこと。昨日とほとんど同じなのに、何かだけがおかしい。その小さな違和感が積み重なり、巨大な世界へ膨らんでいく感覚を味わえる。
異世界迷い込み度 ★★★★★/不穏さ ★★★★★/先が気になる度 ★★★★★
『羊をめぐる冒険』
主人公の「僕」のもとに届いた一枚の写真。そのなかに写り込んだ、背中に星形の斑紋を持つ一頭の羊を探すことから、奇妙な冒険が始まる。恋人の「耳」に特別な力があったり、謎めいた「羊博士」が現れたり、ついには羊の皮をかぶった「羊男」まで登場したりと、物語は東京の日常から遠く離れた不可思議な領域へ進んでいく。タイトルだけ見るとのどかな物語を想像するかもしれないが、その実態は、何か巨大で得体の知れない力をめぐる探索譚だ。特におもしろいのは、「羊を探す」という荒唐無稽な目的を、登場人物たちが妙に真剣に受け入れていくこと。その真顔の異常さこそ、村上春樹ならではの味わいである。
奇妙な生き物度 ★★★★★/冒険度 ★★★★★/じわじわおかしい度 ★★★★★
『ダンス・ダンス・ダンス』
かつて『羊をめぐる冒険』で訪れた札幌の「いるかホテル」。主人公の「僕」が再びそこを訪れると、ホテルは近代的な高級ホテル「ドルフィン・ホテル」へと生まれ変わっていた。しかし、その建物にはどういうわけか、エレベーターが止まる真っ暗なフロアが存在する。その闇の奥にいるのは、かつて出会った羊男だった――。日常的なホテルのなかに、説明不能な「別の空間」がぽっかり口を開けている。その気味悪さは村上作品のなかでもかなり強烈だ。さらに物語には失踪した女性、謎の部屋、六体の人骨などが次々と現れ、世界の裏側へ通じる通路があちこちに開いていく。都会的な軽やかさと怪談めいた不穏さを同時に味わえる一冊だ。
異空間の怖さ ★★★★★/謎の場所度 ★★★★★/羊男に会いたい度 ★★★★★
『街とその不確かな壁』
主人公が17歳のときに出会った少女は、「本当の自分は高い壁に囲まれた街に暮らしている」と語る。その街には図書館があり、夢を読む「夢読み」がいて、人々には影がない。そして主人公はやがて、本当にその街へ入り込むことになる。現実世界では図書館長として働きながら、もうひとつの世界との境界が次第に揺らいでいく。壁、図書館、井戸、影、死者との対話――村上春樹が長年描いてきたモチーフが次々と現れるため、まるでこれまでの作品世界が巨大なひとつの街に集まったようでもある。初めて読む人には幻想世界への入り口として、既読作品の多い人には「これはあの作品にもあった」とつながりを探す楽しみがある。
幻想世界度 ★★★★★/村上春樹らしさ ★★★★★/過去作とのつながり度 ★★★★★
村上春樹の描く異世界には、魔法の扉も、異世界へ転生するための呪文も必要ない。高速道路の階段を下りただけで月が二つになり、ホテルのエレベーターを降りれば暗闇の向こうに羊男がいる。だからこそ恐ろしく、同時に魅力的なのだろう。「自分の暮らす世界にも、どこかに入り口があるのではないか」。一冊を閉じたあと、いつもの街がほんの少し違って見える。そんな感覚を味わえるのも、村上春樹を読む醍醐味なのである。