
腹が減り、のどが渇いてどうしようもない――。
今から3000年以上前の古代エジプト。王墓建設を任された職人たちが食糧配給の遅れに耐え兼ね向かったのは役人たちのいる葬祭殿だった。座り込んだ職人たちは王・ラメセス3世の治世への不満を役人たちにぶつけた。
記録に残るなかでは最古級とされるストライキが起こった瞬間だった。
ラメセス3世は一般に紀元前12世紀前半から半ばにかけての約30年間エジプトを統治したとされる。地中海あたりから襲来した海の民を退け、軍事面では秀でた手腕を発揮した。だが、国内経済を疲弊させ政治的な混乱をもたらしもした。王権は弱まり、ラメセス3世は権力闘争に巻き込まれ謀殺されてしまう。
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一言では言い表せないラメセス3世と、その統治下の実相が今でもわかるのは、文字資料が残されているからだ。
古代エジプトの人々は建造物の石壁や彫像、英語「paper」の語源ともされるカヤツリグサ科の植物で作られたシート、パピルスに文字で記録を残した。残された古代エジプト語資料の読み方は長らく失われていた。だがナポレオンのエジプト遠征で発見されたロゼッタ・ストーンを手掛かりに、学者のシャンポリオンが解読に成功し、今日でも読み継がれていくようになったのである。
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古代エジプト語の出勤簿――庶民の暮らしを記す資料
松本弥『古代エジプト人の愉快な日常』(文藝春秋)で描かれるのは、文字資料から浮かび上がってくる、歴史の表舞台には名前の挙がることのない、人々の日々の生活だ。
古代エジプト語を象徴するのがヒエログリフ・ヒエラティック・デモティックという象形文字を含めた独特の文字体系だ。
たとえばヒエログリフは、神殿の壁や記念物といった神聖なものや、王の勅令や業績を石碑などに刻むために使われるものであり、当時は役人や書記、神官など限られた職に就く人間しか使用していなかったとされる。
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では、古代エジプト語で残された資料はお堅いものばかりかというと、もちろんそんなことはない。役人の愚痴のようなものから、庶民の暮らしぶりを示すもの、なかには少し卑猥なものまで実に多彩な資料が残されているのだという。
興味深い資料の一つが大英博物館に所蔵されているという、労働者の勤怠が記された出勤簿のオストラコン(石片や陶片のこと)だ。数千年前の労働者たち。さぞ過酷な労働環境であろうと思いきや、オストラコンには全く違う実態が記されていた。
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欠勤理由は赤いインクで記されている。病欠が大半だが、なかには「酒を飲んでいたので」という理由もあったという。著者は「二日酔いになったのだろう」と分析している。酔いつぶれた次の日に仕事を休めるのは、なんともうらやましい。
そのほかにビールの仕込みや家の修繕など、私的な理由での欠勤も許されていた。古代エジプトの労働環境は現代とそこまで違わず、かなりホワイトだったのかもしれない。
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現代人の生活にも近しいものがペットに関して残された記述だろう。
今から数千年前のエジプトでも、人々は身近な動物を愛で、そして共に暮らしていた。
“最良の友”と呼ばれる犬もまた、古代エジプト人たちの生活のかたわらにいた。当時から名付けはされていたようで、「アウアウ(ワンワンの意)」など、鳴き声を模した名前から猟犬を意味する「アバケル」といった名前もあったようだ。
犬たちは単なる愛玩動物としてだけでなく、ときに番犬や家畜の見張り役として、ときに狩りの共として、主人の生活を支えた。飼い主の溺愛ぶりもなかなかのもので、一匹の犬のために墓が設けられたケースもあったのだという。
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本書は、単にこうした古代エジプト人の生活の実相を紹介するだけでなく、残されたヒエログリフやヒエラティックといった古代エジプト語の読み方の簡単なレクチャーも備えている。
挿入されている膨大な図版を見ていけば、なんとなくではあるものの、古代エジプト人が残した、悠久の世界の一端が読み解けるような構成になっているのも見事。
“愉快な”だけでなく、本書を入り口に古代エジプトの世界を学びたい人にもうってつけの一冊だ。
文=柳羊
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