芥川賞の選考会は、ときに2時間半近く、あるいはそれ以上に及ぶことがある。だが一方で、驚くほど早く結果が発表された回もある。選考時間が短いからといって、議論が浅かったという意味ではない。候補作の評価が比較的まとまりやすかったのか、受賞作の強さが際立っていたのか、あるいは選考委員の間で早い段階から方向性が見えていたのか。今回は、2009年以降の記録をもとに、選考開始から発表までが短かった芥川賞受賞回を5つ紹介する。短時間で選ばれた作品には、迷いを振り切らせるだけの強さがあったのかもしれない。
1)第170回『東京都同情塔』九段理江

発表まで1時間37分。生成AI時代の文学をめぐる問題作は、意外な“スピード決着”だった。
第170回芥川賞は、16時に選考が始まり、17時37分頃に受賞作が発表された。選考時間は1時間37分で、2009年以降に確認できる受賞回の中では特に短い。受賞作は九段理江『東京都同情塔』。舞台は、ザハ・ハディド案の国立競技場が完成し、「寛容論」が浸透したもうひとつの日本。犯罪者を収容する高層塔「シンパシータワートーキョー」をめぐり、言葉の正しさや社会の善意が問われていく。受賞会見で生成AIの使用が話題を呼んだが、選考そのものはかなり早く決着していた。この速さもまた、作品の現代性が強く印象づけられた証拠かもしれない。
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選考会の評価一覧を見れば、なぜ受賞作が1時間37分で決着したのかは一目瞭然だった。9人の選者のうち、3人が◎、3人が◯とし、『東京都同情塔』が群を抜いていた。唯一■評価を出したのが小川洋子氏で、「どうしても私は、建築家の牧名沙羅にも、塔で働く拓人にも人間的な息遣いを感じることができなかった」としながらも、「九段さんが小説の可能性を押し広げてゆく書き手であるのは間違いない」と評価している。
ちなみに小川洋子氏が◎をつけたのが安堂ホセの『迷彩色の男』だ。「一行一行に込められた緊張感に圧倒された。血や汗や皮膚やあばらや精液の前では、愛も差別も無意味になる。暴力に理由などなくなる」と評価していた。
指標:スピード決着度★★★★★/現代性★★★★★/議論喚起度★★★★★
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2)第147回『冥土めぐり』鹿島田真希

発表まで1時間47分。家族の重さと過去の記憶を描く静かな作品が、短時間で選ばれた。
第147回芥川賞は、17時に選考が始まり、18時47分頃に発表された。選考時間は1時間47分で、今回の5選では2番目に短い。受賞作は鹿島田真希『冥土めぐり』。候補作には戌井昭人、鈴木善徳、舞城王太郎、山下澄人らの作品も並んでいたが、この回では『冥土めぐり』が受賞した。物語は、かつて栄えていたリゾート施設を訪れる夫婦を通じ、家族、介護、過去の記憶が浮かび上がる作品である。大きな事件で押し切る小説ではないが、静かな筆致の中にある毒と余韻が強い。早い決着だったからこそ、作品の完成度が選考の場で際立ったのだろう。
選考会では、9人の選者のうちなんと村上龍氏以外が推していたようだった。村上龍氏は「わたしだけが『ノー』だったが、テイストとモチーフに対する違和感があっただけである」と言葉を残している。そして◎をつけた人がひとりもいない、という結果にもなっている。
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◯の評価をつけた高樹のぶ子氏は「作者のもっとも伝えたい『奇蹟』を、不器用なまでに真っ正面から書いている」とした。
指標:スピード決着度★★★★★/静かな余韻度★★★★☆/家族の重さ★★★★☆
3)第144回『きことわ』朝吹真理子/『苦役列車』西村賢太


発表まで1時間49分。対照的な2作が、短時間で同時受賞となった。
第144回芥川賞は、17時に選考が始まり、18時49分頃に受賞作が発表された。選考時間は1時間49分。受賞作は朝吹真理子『きことわ』と西村賢太『苦役列車』の2作である。『きことわ』は、幼い頃に親しかった貴子と永遠子が、25年ぶりに再会する一日を描く、記憶と時間の小説。一方の『苦役列車』は、日雇い労働で暮らす青年の鬱屈や孤独を私小説的に描いた作品である。繊細な時間感覚の小説と、荒々しい生活感の小説が同時に選ばれたこと自体が面白い。対照的だからこそ、選考委員の評価も分け合う形で早くまとまったのかもしれない。
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選考会では、受賞作の2作に評価が偏っていたようだ。池澤夏樹氏は「時間というテーマを中心に据えた作品である。抽象的なものを具体的に語るのが小説だとすれば、これは希有な成功例と言うことができる」と『きことわ』に◎をつけた。
ただ川上弘美氏が◎をつけたのは、受賞作ではなく、田中慎弥『第三紀層の魚』だった。「三回、わたしはこの小説を読みました。読むたびに、好きになりました」とかなり評価している。
なお、村上龍氏は第144回の芥川賞候補作全体に対して、「『きことわ』が圧倒的な支持を得て早々と当選し、『苦役列車』も過半数の支持を獲得して、今回は二作受賞となった。わたしは、二作の受賞に積極的に反対はしなかったが、積極的に推したわけでもなかった」と記している。
指標:スピード決着度★★★★☆/同時受賞インパクト★★★★★/作風の対照度★★★★★
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4)第148回『abさんご』黒田夏子

発表まで1時間49分。実験的すぎる小説が、迷いなく選ばれたように見える回。
第148回芥川賞は、17時に選考が始まり、18時49分頃に発表された。選考時間は1時間49分で、第144回と同じくかなり短い。受賞作は黒田夏子『abさんご』。著者は75歳で芥川賞を受賞し、当時の史上最高齢受賞としても話題になった。文藝春秋の書籍紹介では、本作は「日本語の限界に挑んだ超実験小説」でありながら、「昭和」の知的な家庭に生まれた幼子が成長し、両親を見送るまでの物語が隠されているとされる。形式は挑戦的だが、その奥に人生の時間がある。実験性と物語性の両方が、短い選考時間の中で強く届いたのだろう。
第148回の選評を見るとどうにも黒が目立つ。●、■、▲が並び厳しい評価が多かった。その中でふたつの◎を獲得したのが受賞作『abさんご』だった。次点は小野正嗣『獅子渡り鼻』だと思われるが、積極的に評価している◯はひとつのみ。川上弘美氏が受賞作の『abさんご』とともに◯をつけたかっこうだ。
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受賞作に●をつけたのはふたりで、そのうちのひとりが村上龍氏だ。「推さなかった。ただし、作品の質が低いという理由ではない。これほど高度に洗練された作品が、はたして新人文学賞にふさわしいのだろうかという違和感のためである」としている。
指標:スピード決着度★★★★☆/実験度★★★★★/話題性★★★★☆
5)第158回『百年泥』石井遊佳/『おらおらでひとりいぐも』若竹千佐子


発表まで1時間49分。海外の泥と東北弁の孤独、まったく違う2作が同時受賞。
第158回芥川賞は、17時に選考が始まり、18時49分頃に発表された。選考時間は1時間49分。受賞作は石井遊佳『百年泥』と若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』の2作である。『百年泥』はインド・チェンナイを舞台に、洪水後の泥からさまざまなものが現れる物語。『おらおらでひとりいぐも』は、夫を亡くした高齢女性の孤独と内面の声を、東北弁を交えて描く作品である。舞台も語り口も大きく違うが、どちらも「生きてきた時間」が濃くにじむ。候補作の中で2作の個性がはっきり立っていたからこそ、短時間で同時受賞に至ったのだろう。
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選考会では、受賞作の2作品に評価が偏ったようだ。石井遊佳『百年泥』には◎が3人、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』には5人が◎をつけた。なお、『おらおらでひとりいぐも』は若竹氏のデビュー作である。第54回文藝賞を史上最年長となる63歳で受賞し、そのまま芥川賞も受賞する形となった。宮本輝氏は「このような深さは、やはりある程度の年齢を重ねてこなければ書けないもののようだ」と評価した。
なお、候補作の中には第157回直木賞候補にもなっていた宮内悠介氏がいる。第158回芥川賞候補に挙がったのは『ディレイ・エフェクト』という作品で、これに対して島田雅彦氏は「芥川賞でも直木賞でもとっとと獲らせてしまえと思ったが、残念な結果になった」と記している。
指標:スピード決着度★★★★☆/人生の濃さ★★★★★/同時受賞インパクト★★★★☆
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選考会が短かった作品は、「すんなり決まった作品」と言い換えられるかもしれない。ただし、それは決して軽い作品という意味ではない。今回紹介した受賞作には、生成AI時代の言葉、家族の記憶、日雇い労働の孤独、実験的な日本語、老いと人生の時間など、濃いテーマが並んでいる。むしろ、短時間で結果が出たからこそ、作品の強度や受賞への説得力が際立っていた可能性もある。長い選考会には迷いの面白さがあり、短い選考会には決断の面白さがある。発表までの時間から芥川賞を眺めると、受賞作の読み方も少し変わるだろう。
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