
直木賞作家・恩田陸さんが四半世紀にわたって書き続けている人気作・神原恵弥シリーズ。その最新作となる『傾斜のマリア』(双葉社)が刊行されました。凄腕ウイルスハンターの神原が今回向かうのは、傾斜都市とも呼ばれる坂の町・N崎。祖母の遺した謎めいた数え唄の謎解きに挑む彼は、またも奇妙な事件に巻きこまれて……。旅の楽しさと謎解きの魅力が融合した長編について、恩田さんにうかがいました。
――凄腕ウイルスハンターが、旅先でさまざまな事件に巻き込まれる神原恵弥シリーズ。2001年刊行の『MAZE』以来書き継がれている人気作ですが、そもそもどうして主人公・神原の職業をウイルスハンターにしたのですか。
恩田陸さん(以下、恩田):世界中あちこちに行ける職業というのが一番大きいですよね。実際イギリス人の研究者で、ウイルスを追って世界中を旅している方がいて、面白い職業だなと思ったのがきっかけですね。一方でアメリカ陸軍には感染症医学研究所という専門機関もあるし、ウイルスは軍事とか謀略とも絡んでくる。こういう分野を扱ったら面白いんじゃないかなと。その割に恵弥が仕事をしているシーンはあまり出てこないんですが(笑)。やっぱり一番大きかったのは、世界各地を舞台にできるという点です。
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――もともとウイルスに興味はお持ちだったのでしょうか。
恩田:その手の本や記事を読むのは好きです。100年前に流行したスペイン風邪のウイルスを、永久凍土に埋まった死体から取り出すという試みがあったり。ウイルスは文明の進歩とも密接に関わっているし、面白い素材だなと思います。
――恵弥はプラントハンターと呼ばれることもありますが、こちらはどんな仕事ですか。
恩田:プラントハンターは大英帝国が発祥で、世界中にハンターを派遣して珍しい動植物を集めさせたんです。中国に潜入してお茶の作り方を盗んだり、そういうある種スパイのような活動をして、世界の苗木が王立の植物園に集められた。ウイルスハンターと一部重なるところがあるので、恵弥は両方を兼ねているという感じですが、そこまで深く決めていないのであまり突っ込まないでください(笑)。現在も西畠清順さんという、世界中を訪れている日本人プラントハンターの方がいて、そういうお仕事があるんだと面白く感じたことが、神原恵弥のイメージに投影されています。
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――『MAZE』は西アジアの某国、続く『クレオパトラの夢』(03年)は日本の北国のH市(函館)、そして第3作『ブラック・ベルベット』(15年)が東西文化の交差点であるT国(トルコ)と、さまざまな舞台を描いてきたこのシリーズですが、今回恵弥が向かうのは九州のN崎(長崎)です。
恩田:長崎は好きで、学生時代から何度も足を運んでいるんです。歴史があって、海外からいろんな文物が入ってきて、他の町にはない風景を作りだしている。このシリーズはウイルスを題材にしていることもあって、何かが外から入ってきやすい土地を舞台にしている感じですね。函館もそうだし、トルコもそう。そこは他の作品とちょっと違う選び方をしている部分かもしれません。
――恵弥の旅の目的は、長崎生まれの祖母が遺した数え唄の謎を探ること。3番まであるその唄には、「かねが なるなる カスドール」「すずが なるなる いっこっこう」「うみが なるなる マルボーロ」と長崎の伝統的なお菓子が登場します。
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恩田:このところお菓子の歴史に興味があるんです。というのも子どもの頃からあんこが苦手だったんですが、50歳を過ぎたあたりから好きになって、あちこち食べ歩きながらお菓子の歴史を調べるようになったんですね。老舗の和菓子屋さんは歴史をきちんと記録していることが多いんです。お菓子作りに欠かせない砂糖は、オランダや中国から長崎に入ってきて、シュガーロードと呼ばれる街道を通って運ばれた。和菓子の歴史を考えるうえでも、長崎というのはとても重要な土地なんです。かつて砂糖は貴重品で、長崎では遊女の給金が砂糖で支払われていたとか。
――長崎をめぐるミステリーといえば、お菓子は欠かせないわけですね。カスドースも一口香(いっこっこう)もマルボーロも、この本で初めて知りました。
恩田:一口香は中が空洞になった、フォーチュン・クッキーみたいな感じのお菓子です。これが中国由来だということは連載中に気がついて、恵弥にその説を語らせました。中国の陝西省に一口香という小さな茶碗に入ったスープ麺があるんですが、この地域で食後に食べられているのが長崎の一口香によく似たクッキーなんです。たぶんこの二つがセットで日本に伝わって、そのうちに麺ではなくクッキーを一口香と呼ぶようになったんじゃないかと。そういうことを考えるのは楽しいですね。
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――内陸部の陝西省からはるばる長崎まで伝わったと考えると、ロマンがありますね。
恩田:長崎名物といえばカステラですが、ポルトガル本国とはかなり変わっているんです。本国では紙のお皿に載せて焼く、ケーキのようなものなんですよ。同じカステラといっても、両国では全然違う。このシリーズで書きたいのは、まさにこうした問題ですね。一口香は名前が違うのに、お菓子そのものはよく似ている。伝播することで変わるものと、変わらないものの違いというか。

――恵弥は同性とも異性とも恋愛経験のあるバイセクシャル。このシリーズで性的マイノリティに属する男性を主人公にしたのは、なぜだったのでしょうか。
恩田:恵弥に関しては、グレーゾーンに属する存在という感じです。もともと白にも黒にも属さない、曖昧な立ち位置に興味があって、恵弥のセクシャリティもそこから決まったような記憶があります。性別だけでなく、あらゆる境界を乗り越えるキャラクターですね。シリーズを書き続けているうちに時代が変わって、性的多様性が受け入れられる世の中になってきた。バイセクシャルといっても、その中でさらに細分化された性的指向があるし、単純には分けられない。今にして思うと、時代を先取りしたようなキャラクターだったのかなと思います。
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――旅先で合流した国立感染症研究所の研究員・多田直樹とともに、長崎の町を歩きながら、数え唄のヒントを見つけようとする恵弥。グラバー園や軍艦島など、名所旧跡をめぐりながらの謎解きツアーが楽しいですね。
恩田:一応ウイルスとかバイオテクノロジー的な要素は残しつつ。基本的には旅先で見たり、食べたりしたものについてのおしゃべりです。トラベルミステリーに会話の面白さをつけ加えているので、いってみれば「トラベル会話ミステリー」ですね。旅行ガイド的に長崎の名所をめぐる展開は、自分でも書いていて楽しかったです。
――数え唄の歌詞には、フリーメイソンや隠れキリシタンを思わせる部分もあり、恵弥と多田の連想はさまざまな方向に広がっていきます。
恩田:そこはさっきの一口香と同じで、やっぱり伝播して変わっていくものに興味があるんでしょうね。日本の庭園にフリーメイソンの印が刻まれているのも面白いし、キリシタンの人たちの信仰が長年潜伏生活を続けるうちに、日本独自のものに変わっていったという経緯にも関心があります。文化の伝播とか受容というテーマを描くうえで、長崎というのはぴったりの舞台だったなと思います。
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――多田の案内でN崎大学を訪ねた恵弥は、熱帯医学研究所の教授・板倉実と対面。彼にある頼み事をされたことで、物語はシリアスに展開しかけますが……。
恩田:そこはさらっとスルーするような形になりました(笑)。あまりシリアスになりすぎないように意識しました。本格的な陰謀や謎を描こうと思えばできる設定なんですが、このシリーズで書きたいのはあくまで腹黒い大人たちの楽しいおしゃべりなので。
――ぴりっと緊張感が走るシーンもありますが、全体的にはユーモラスで、楽しい雰囲気のミステリーですよね。
恩田:ユーモアの要素はいつでも必要だと思っていて、このシリーズでも笑える会話、明るい会話は大切にしていますね。恵弥にしても多田にしてもああいう性格なので、真面目な場面であってもユーモアのセンスは忘れないだろうと。
――タイトルの『傾斜のマリア』は、数え唄の「かたむく マリア」という歌詞に由来します。傾斜都市・長崎が舞台だからこそのタイトルですね。
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恩田:誰が言い出したかは知らないですが、実際長崎は世界三大傾斜都市と呼ばれているらしいんです。高低差がある都市って面白いんですよね。作中にも書きましたが、自転車に乗っている人がほぼいないとか。坂が多いから、平地の方が地価が高くなりがちとか。地形が人の暮らしや価値観を決めるというのは、当たり前といえば当たり前なんですが、面白いことだなと思います。
――「日本は文化の吹き溜まり」というのは作中の多田の言葉です。日本文化には海外に由来するものが数多くあり、それらが自然に溶け合っている、ということも本書を読んでいて気づきます。
恩田:日本って小さい国ですけど、山が多いので総面積はかなり広いんですよね。狭い土地にぎゅっと折りたたまれるように、いろんな文化が共存している。長崎はその象徴のような町ですよね。長崎の人たちは意外とそのことに気づいていないんですが、それは海外から伝播してきた文化が、自然と生活に溶け合っている証拠なんだと思います。
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――ラストで明かされるのは、数え唄にこめられた祈り。長崎の歴史とも深く関わるミステリーを堪能させてもらいました。長期にわたる連載を終えられた今のお気持ちは?
恩田:連載に8年もかかってしまったので、さすがに感慨深いです。途中コロナウイルスによる世界的なパンデミックが起こって、作品内容とシンクロする部分もありましたが、基本的なノリはこれまでと変わりません。旅行気分を味わいつつ、恵弥たちのおしゃべりと謎解きを楽しんでみてください。

取材・文=朝宮運河、撮影=後藤利江
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