
土砂崩れに見舞われ、完全に孤立した山奥の研究所。実験室に閉じ込められたふたり。もし、彼女たちの身に危険が迫っているのなら、すぐにでも助け出さなければならない。だが、彼女たちが閉じ込められた部屋の周囲には硫化水素が立ち込め、扉を開ければ、ふたりは一瞬で死ぬ。救助がいつ来るとも知れないなか、部屋の外に残された者たちは、救助を待つべきか、ただちに突入すべきかで対立する。さらに、そのさなか、連続殺人まで起こり……。
これ以上なくスリリングな舞台設定。逃げ場を失っていくような緊迫感。他人事ではいさせてくれない没入感。そんな極限のスリルを味わわせてくれるのが、『シュレディンガーの密室』(麻根重次/講談社)。「シュレディンガーの猫」のような状態に追い込まれたふたりをめぐる「究極の選択」の物語だ。本作について、『メフィスト』編集長・森田練は「読む前の自分には戻れない――至高の読書体験」と評するが、まさにその通り。この本は、読み終えた瞬間、世界の見え方が変わってしまうような一冊。ミステリ作家の間でも評価が高く、島田荘司は「21世紀本格の絶望」、竹本健治は「この書を先んじて推薦できることを至福に思う。『いいから、読みなさい』」、法月綸太郎は「SF設定でない、現実世界の事件だからこそ真価を発揮する“この”トリック、“この”動機――そして、“この”ラスト」と、それぞれ賛辞を寄せている。編集者や名だたるミステリ作家をも魅了した、今、注目すべき一作なのだ。
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扉を開ければ死ぬ。だが、待つことも許されない
物語は、フリーライターの朝倉が、取材のため、妹・美羽の職場である蓮田医学生物研究所を訪れたことから始まる。そこで出会ったのは、研究所の出資者・大門の親戚だという14歳の少女・円香。彼女は、初対面の朝倉に、自分の出生の秘密を調べてほしいと突然頼み込んでくる。事情はすぐにはのみ込めない。だが、研究員たちに話を聞くと、円香は、実は大門の親戚などではなく、腎臓を患う大門への移植用ドナーとして金で買われ、育てられてきたという疑惑があるらしい。体調の優れない円香は、美羽とともに、陰圧管理された実験室に隔離される。だが、その直後、土砂崩れが発生。実験室の外――1階フロアは、実験用ボンベから漏れ出した硫化水素が充満する死の空間(デッドゾーン)と化した。無理に部屋へ突入すれば、実験室の陰圧構造によって室外の硫化水素が室内へ流れ込み、弱ったふたりは死んでしまうが……。
ふたりをどう助けるかという緊張感もさることながら、この作品は、それだけではない。序盤、ハッと息をのむのは、少女・円香をめぐる疑惑だろう。大門が、自らに臓器を提供させるためだけに少女を育ててきたのだとすれば、倫理的にも道徳的にも決して許されるべきことではない。その疑惑が事実ならば、加担してきた研究員たちも同様だ。しかも、災害に見舞われた今、大門や研究員たちは、円香ではなく、彼女の臓器のことばかり気にしているように見える。もし円香が死んでしまったなら、臓器を無駄にしないため、一刻も早く扉を開けなければならない。作中では、円香が死亡していた場合、腎臓を移植に使える猶予はおよそ48時間だと示される。そう、この密室には、「48時間」というタイムリミットが存在するのだ。
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……いや、今、心配すべきは円香や美羽の命であって、臓器ではないのではないか。一刻も早く臓器を回収せねば、腎臓を患う大門の命も危ないのは分かる。だが、少女の命よりも臓器を優先しているようで、おぞましいにもほどがある。「開ければ確実に死ぬんですよ」「すでに死んでいたら、早く開けないと臓器が無駄になる」――そんな議論に、朝倉とともに行き場のない怒りを感じずにはいられない。読んでいるこちらにまで毒ガスが漏れ込んできたかのような、息苦しさを覚えずにはいられない。
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大切な人のために、自分の命を差し出せるか
さらに突きつけられるのは、大切な人のために命をなげうつことができるかという問いだ。部屋の外に残された者たちの手元にあるガスマスクは、たったひとつだけ。もし実験室に突入するならば、デッドゾーンを通らなければならない以上、マスクは絶対に必要だ。だが、実験室のドアを開けた瞬間に室内へガスがなだれ込むといっても、室内のふたりが致死量を吸い込むまでには、わずかな時間差がある。突入者が自分のガスマスクを即座に室内のひとりに渡せば、自らは命を落とすことになるが、そのひとりを救うことができる。己の命と引き換えに、誰かを救う選択ができるのか――その問いを、他人事として受け流すことはできない。妹を救いたいと願いながらも決断できずにいる朝倉の苦悩を追ううちに、自分もまた、同じ選択を迫られたら何も決められないだろうと気づかされる。
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究極の選択に、完璧なアリバイが立ちはだかる
今すぐ突入し、三人のうちふたりが確実に死ぬ道を選ぶのか。それとも、救助を待ち、三人全員が生き残る可能性に懸けるのか。当然、待つほうを選ぶべきに思える。だが、そこに円香の臓器と48時間のタイムリミットが絡み、判断を鈍らせる。そのうえ、実験室の外では、連続殺人事件まで起こる。ある事件は密室となった資料室で、またある事件は全員に完璧なアリバイがある状況で――いったい、この研究所で何が起きているのか。もはや誰を信じていいのか分からない。この焦燥ともどかしさを、どうすればいいのか。せき立てられるように、ページをめくり続けずにはいられない。
そして、ついに実験室の扉が開き、ふたりの生死が「確定」する。そこで待ち受けるのは、鮮やかなどんでん返しだ。……ああ、そんな真相が隠されていたとは。それまで見えていた景色が、ここまで塗り替えられてしまうとは。
ミステリ好きならば必読。他人事ではいられない究極の選択と、この密室の果てに待つ結末を、ぜひともあなた自身の目で「観測」してほしい。
文=アサトーミナミ
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