仕事が数年振りに一区切りつき、休暇を貰い1カ月ほどパリで過ごした。滞在中に読み耽っていた小説が『BUTTER』(柚木麻子/河出書房新社)である。
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「バター醤油ご飯を作りなさい」『BUTTER』(柚木麻子/河出書房新社)より
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その女は、初めて対面する主人公に唐突な司令を下した。
バター醤油ご飯といえば、人前で「バター醤油ご飯が好きです」と口にするのも憚られる、罪の味という印象がある。本当は誰にも言いたくないのだが、私は幼い頃から、この組み合わせでご飯をカッ喰らうことにいちばん幸福を感じてきた。あまりにも馴染みある、料理とも言えない単純な工程。大人になった今でも誰かに怒られる気がして、背徳感を滲ませながらも、女の耽美な語り口に食欲が煽られてたまらない。
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引用----
「(前略)美味しいバターを食べると、私、なにかこう、落ちる感じがするの」「落ちる?」「そう。ふわりと、舞い上がるのではなく、落ちる。エレベーターですっと一階下に落ちる感じ。舌先から身体が深く沈んでいくの」
『BUTTER』(柚木麻子/河出書房新社)より
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信じられないことに、いま冷蔵庫には作中で推薦されていた加塩のエシレバターが眠っている。たまたまエシレバターが冷蔵庫に入っている状況なんて、私の冷蔵庫史には見当たらないが、ここはフランス。なんと偶然にもスーパーで購入したエシレバターが静かにその順番を待っていたのだ。
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これ以上のタイミングはない。私は持参した米を厳かに研ぎはじめた。美味しい米を炊くなら断然軟水。円安のヨーロッパでボルヴィックを贅沢に注ぐ。30分浸水させた米を沸騰させて10分、蒸して10分。無事に鍋で炊き上がった米はつやつやと粒立ち輝いていた。
勝ち確の瞬間だった。ご飯にバターを惜しげもなくのせ、ヒガシマルの牡蠣醤油をたらりと回しかける。
ああ、間違いなく美味しい本当の贅沢が約束されている。女の執念的な語りが改めて脳内で再現される。
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引用----
「バターは冷蔵庫から出したて、冷たいままよ。本当に美味しいバターは、冷たいまま硬いまま、その歯ごたえや香りを味わうべきなの。ご飯の熱ですぐに溶けるから、絶対に溶ける前に口に運ぶのよ。冷たいバターと温かいご飯。まずはその違いを楽しむ。そして、あなたの口の中で、その二つが溶けて、混じり合い、それは黄金色の泉になるわ」
『BUTTER』(柚木麻子/河出書房新社)より
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もちろん、バターを溶けきらないまま食べたことはあった。でも冷たさそのものを味わうという発想は、これまでの感覚になかった。口に運ぶと、舌先にまだ硬いバターが触れる。ああ、この感覚。ずっと知っていたはずなのに小説によって初めて輪郭を持った。次の瞬間、炊きたてのご飯の熱であふれる黄金。芳しい牡蠣醤油とのマリアージュ。馴染みあるはずのバター醤油ご飯が、底知れぬ顔を見せた瞬間だった。
物語というのは時に人生を大きく変えるものだと思っていた。けれど、現実はもっと静かに、生活に根差した変化をもたらすことがある。現に私は、「バター醤油ご飯を作りなさい」という台詞によって、懐かしいはずのバター醤油ご飯に、新しい欲望を見つけてしまったのだから。物語は、いつも新しいものだけを与えるのではない。ずっとそこにあった欲望に名前をつける。その瞬間、見慣れた一皿でさえ、まるで初めて出会った料理になるのだ。

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