
村上春樹3年ぶりの長編小説『夏帆―The Tale of KAHO―』(新潮社)は自身初の女性を主人公とした作品になった。
作者本人がインタビューで「夏帆になったつもりで書いた」と言っていたように、この物語は主人公により近い視点(三人称一元視点)で書かれている。
そして、それこそがこの物語の醍醐味であり、村上春樹の真骨頂と言えよう。

物語は四章立てで構成されており、それぞれに「夏帆とモーターサイクルの男」「武蔵境のありくい」「夏帆とシロアリの女王」「守護天使、象の卵とスカーレット・ヨハンソン」とタイトルがつけられている。
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第一章ではいきなりデートしている相手から「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが、君みたいな醜い相手は初めてだよ」と言われる場面から始まる。
なかなかショッキングな始まりだが、実は村上春樹という作家は登場人物の容姿について言及することが多く、昨今のルッキズムの問題についても一家言あるのではないだろうか。
この後、夏帆とデートの相手である佐原はもう一度出会う。
そこで佐原はこんな言葉を夏帆に投げかけている。
引用----
「いいかい、この時代、ルッキズムというものが強く否定されている。多くの人が美人コンテストを声高に批判する。公衆の面前でブスなんていう言葉を口にしたら、間違いなく袋だたきにあうだろう。しかし一方でテレビを見てごらん。雑誌を見てごらん。そこには化粧品や美容整形やエステサロンの広告が溢れかえっている。そういうのって、どう考えてもダブル・スタンダードじゃないか。意味のない茶番というべきか」
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ルッキズムと創作物は相性が悪い。
美的感覚は個人の価値観に委ねられるところが大きいが、物語を進める上において、登場人物の容姿が何かしらの作用をもたらすこともあるだろう。そこに言及しないのもかえって不自然だ、という事態も起こりかねない。やはり生やさしい問題ではない。
絵本作家の夏帆は自身の容姿について今までさほど関心を持っていなかったが、この件を題材に創作にとりかかり、「自分の顔を探す少女の話」を書き始める。
この「夏帆」という小説は、夏帆が暮らす現実の世界、夏帆が描く絵本の中の世界、そして「夢らしきもの」の世界の三つの世界が描かれている。
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現実の世界との境界がなくふっと現れる「夢らしきもの」の世界には、ありくいの夫婦(主に奥さんだけ)やジャガー、シロアリの女王などが現れる。
彼らは本来ジャングルに住んでいるのだが、ある通路を通って夏帆が住んでいる世界に入り込んでくる。現実の世界では平凡な存在である主人公が隣接する異世界では「特別」な存在になる、という村上春樹作品でよく見られる主題はこの作品でも貫かれている。
第二章ではモーターサイクルの騒音が聞こえない武蔵境に引っ越すようにありくいの奥さんに言われ、第三章ではシロアリの女王が乗り移った母親と対峙する。第四章ではシロアリの女王と対決し、再び夏帆の前に現れた佐原が「僕は君の守護天使だ」と告白する。
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あらすじだけを追いかけると混沌としているのだが、ひとつひとつの世界がシームレスに移動するのであまり違和感は覚えない。
あるとき夏帆は昔飼っていた雌猫のことを思い出す。
その猫は、白地に黒の斑点があり、ホルスタイン種の牛を連想させたので「ホル」と呼ばれていた。
ホルは散歩に行くとよくついてきていた。だが、家を離れてある特定の地点まで来ると、ホルはぴたりと立ち止まり、それ以上ついてこなかった。どうやらその地点がホルにとっての「境界線」だったようだ。
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夏帆が中学に上がってまもなく、「境界線」を越えてしまったのか、ホルは姿を消してしまう。夏帆は「夢らしきもの」の世界の住人に会うたびに「私もホルのように境界線を越えてしまったのか?」と思うようになる。しかし、普通ではないものたちが蠢くこの世界を、夏帆は、気づかずに足を踏み入れてしまった「私自身の世界」なのだと気づく。
引用----
だから私はこの世界の出口を見つけなくてはならない。そこを抜けて、変更を受けていない元の世界に帰り着かなくてはならない。きっとどこかに出口があるはずだ。様々なものたちがそこを通って、ブラジルの熱帯雨林から武蔵境の地に移動して来たのと同じような、空間移動のための秘密の通路が。
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でもどうやって見つければいいのだろう? 巧妙に隠蔽されているはずのその出口を。
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デビュー作「風の歌を聴け」から一貫して村上春樹の小説には出口を探している人物が登場する。それは紛れもなく村上春樹本人の姿かもしれない。
出口を見つけられない夏帆は途方に暮れ、「ミソラ」という十歳の女の子が秘密の出口を探す、という内容の絵本を書き始める。
ミソラにはスカーレット・ヨハンソンという名の守護天使がついていた。守護天使のモデルはホルで間違いないだろう。
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この「夏帆」という物語の最後は夏帆が「ミソラの物語」を完成させようと机に向かう場面で終わる。これは言うまでもなく「夏帆の物語」に向かう村上春樹の姿とリンクしている。
現在、すでに「夏帆」を読み終えた人々がネット上に様々な意見を書いている。
これは「家族の物語」なのだろうか?「恋人の物語」なのだろうか? はたまたありくいの奥さんとの「友情の物語」だろうか? といろんな意見が飛び交っている。
拍子抜けなことを言えばこれは「夏帆の物語」である。
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母親との関係が少し希薄だったり、叔父と仲が良かったり、絵を描くのが人より少し上手かったりする夏帆の物語である。パーソナルな物語の中にこそ村上春樹の書きたかったことがあるのではないか、と思う。
ミソラの、夏帆の、村上春樹の、秘密の出口は見つかったのだろうか? そんなことを考えながら自分自身の出口を探している読者も多いのではないだろうか。
文=斉藤紳士

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