
鼠三部作で颯爽と文壇に現れた村上春樹は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』など次々にヒット作を世に送り出し、一躍人気作家の仲間入りを果たす。
そんな村上春樹自身が自ら転換点になった作品と評しているのが『ねじまき鳥クロニクル』だ。発行年は1994〜95年。この頃は91年に湾岸戦争が勃発し、95年にはオウム真理教の一連の事件や阪神大震災があり、まさに激動の時代だった。戦後、いわばアメリカの言う通りに過ごしてきた日本が重要な選択を迫られ、価値観の転換を余儀なくされたような時代である。
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この作品を村上春樹はアメリカで書いている。そして、この物語の後半を書いているあたりから無性に日本に帰りたくなったのだという。それほど「日本的な何か」が内包された小説なのだろうか。
『ねじまき鳥クロニクル』は村上春樹らしい幻想的なお話である。
だがそれは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』よりはグッと日常的で『ノルウェイの森』よりはやや幻想的といった感じである。
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物語の始まりは台所でスパゲティーを茹でているというどこにでもある日常の風景から始まる。主人公は法律事務所を辞めていわゆる「主夫」をしている岡田亨。スパゲティーを茹でていると見知らぬ女から一本の電話がかかってきて、そこから少しずつ平穏な日常が欠損していき、そこが次の世界の入口になる。
この物語のあらすじをざっと紹介しようと思うが、正直なところ、話の筋はあって無きが如くである。箇条書きで起きる出来事を挙げていく方が性質上正しいような気がする。
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・まず、飼っている猫が行方不明になり、探している途中で不思議な姉妹と出会う。
・その後、妻のクミコが家を出て行き、失踪事件へと発展する。
・近所の空き家にある井戸に惹かれ、その中で不思議な体験をし、またそこで少女と出会う。
・クミコを支配する義兄との対決が現実と精神世界の両方で行われ、井戸を介した異世界でクミコを救おうとする。
いくつものエピソードが断絶した形で次々と紹介されるのだが、読者を置いてきぼりにすることはない。そこに村上春樹の文章の魅力が隠されているのだろう。謎めいた展開と意味ありげな文章で読む者をグイグイ引き込んでいく。ぶつ切りになったエピソードを配置していく行為には箱庭的なものを感じる。
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『ねじまき鳥クロニクル』を書き終えた後に行われた心理学者の河合隼雄との対談で、二人は心理療法としての箱庭作りと小説を書くことの相似性について語っている。
箱庭を作るのも物語を作るのもいわば同じことだと断った上で、箱庭作りについての日米の違いについて言及している。日本人はどちらかというと「非言語的」な箱庭作りが得意で、欧米人は不得手なのだそうだ。
欧米人が箱庭を作ると、作庭後に『これは「私」で、この石は「父親」で、この木は「母親」を表現していて……』などと言語で説明しようとする。
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それに対して日本人は『何となく』とか『面白いから』と理屈を取っ払った感覚的な説明をするのだそうだ。
良い悪いの話ではなく、欧米人は言語化して分析しようとするが、日本人は核心に迫るような言葉を投げかけるのは極力避けて、周りからゆっくり治癒させようとするのだそうだ。
そういった意味でもやはりこの作品は箱庭的で日本的である。その日本的なものから抜け道のように現れるのが井戸に象徴されるような異世界への『入口』なのだが、やはりここでも入口と出口の話が出てくる。
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引用----
「この路地の両側を塀で塞いでしまったというのは、あまり良いことではなかったかもしれないな。入口と出口のない道というのは考えてみれば変なもんだものな。道とか川とかの根本原理は流れるということだからね。塞げば淀む」
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これは作中にあるセリフなのだが、ただでさえ閉塞的な日本という国が、世界各国から決断を迫られる機会が増えてきたという流れもあり、袋小路に陥れば淀んでしまうことを危惧していたのかもしれない。
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「自分とは何か? を遡ると社会と歴史全体の洗い直しに行き着く」と村上春樹自身もそう言っている。
さらに「小説にとってバランスというのは非常に大事である。でも、統合性は必要ないし、整合性、順序も必要ない」とも発言している。
ただ、箱庭的にエピソードを配置しているだけに見える『ねじまき鳥クロニクル』もそうなのではないか。
『クロニクル』というタイトルのわりに時系列順に書かれていないことを指摘したのは前述した河合隼雄であるが、本当にそうだと思う。小説を生成する段階として、アフォリズム、デタッチメント、次に物語を語る、という段階があってからコミットメントがくる。
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村上春樹はこの小説でコミットメントの問題について書きたかったのだという。
『ねじまき鳥クロニクル』はコミットすることの難しさと渇望の物語である。
それなのにどんどん遠回りする主人公とあらゆる小説的な装置を箱庭的に無造作に配置していく作者。その関係がどんどん捻れていき、それがそのままクロニクルとして記録されていく。歪で不恰好なのだけど、物語としての強度がどんどん高まっていく。『ねじまき鳥クロニクル』とはそんな不思議な年代記なのかもしれない。
文=斉藤紳士

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