
たとえば、それまでの人生で出会ったことがないような属性の人を前にしたとき、恐怖してしまうことがある。どのように接すればいいのだろう、不用意な発言で傷つけてしまうのではないか――。そう逡巡した結果、碌にコミュニケーションも取らず、その場を離れてしまうのは決して珍しいことではない。「わからない存在」に対して、ぼくらはあまりにも臆病だ。でも、同時にそんな態度が正しいものではないこともわかっている。じゃあ、一体どうすればいいのだろうか。
そんな迷いに対し、真っ直ぐ答えをくれる作品がある。マンガ『僕らには僕らの言葉がある』(詠里/KADOKAWA)だ。
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本作の舞台となるのは、都立丹支高等学校の野球部。そこに耳が聴こえない、ろう者のピッチャー・相澤真白が入部してくるところから物語ははじまる。彼は丹支高校初のインテグレーション生であり、聴者の生徒たちにとっては「異質」な存在だ。それはキャッチャーである野中宏晃にとっても同様だった。野中は真白のことを「障害者枠」と見なし、心の中で毒づく。ところが、なんと野中は真白とバッテリーを組まされてしまう。手話さえ知らなかった野中にとって真白は邪魔な存在でしかない。イライラが募りつつも、仕方なく投球練習に付き合うのだが、真白が投げたボールは想像以上に良い球だったことから、二人のバッテリーとしての青春が幕を開けていく。
野中はキャッチャーとして、そして一人の友人として、少しずつ手話を覚え、真白とコミュニケーションを取るようになっていく。その姿がとても眩しい。誤解のないように強調しておくが、野中は決して献身的なわけでも、偽善的に振る舞っているわけでもない。ただ、自分がそうしたいからしているだけ、なのだ。真白と話したいから、彼の言葉である手話を覚えているだけ。そんな野中の態度が、眩しい。
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ただし本作が優れているのは、野中のような人を描いているから、だけではない。むしろその逆で、作中では真白に対する差別や偏見がありありと描かれている。音声でコミュニケーションを取ることが難しい真白を厄介な存在だと切り捨てる人もいるし、遠巻きに見ているだけで触れ合おうとしない人もいる。あるいは野中を「障害者のお世話役」と見なす人もいれば、「真白がうちの学校に来なくてよかった」と口にしてしまうような人だっている。ただ耳が聴こえないというだけで、真白にはこういった差別がぶつけられる。正直、読んでいて何度も何度も胸が痛んだ。どうしてここまで描くのだろう、と憤りさえ覚えた。でも、その痛みは、ぼくらがしっかり認識しなければいけないものなのだと思う。ぼくら人間はどうしたって差別をしてしまう生き物で、その結果、この世界のどこかにはいつも泣いている人がいる。それを無かったことにして、そんな現実に見ないフリをして、私は差別をしません、この社会は誰にだって優しいんです、などと言ってしまうのはただの欺瞞だ。本作はぼくらにそんな欺瞞を突き付け、その上で、どうすれば優しい社会が実現できるのかを示唆してくれているように思う。だとすれば、本作を読んで感じる痛みは、社会をより良い方向へ導いていくために必要なものなのだろう。
物語の中盤、野中は野球部の顧問から、真白とのバッテリーを解除するように指示されてしまう。それはありえないことだった。野中からすれば、真白と組むのは自分以外に考えられないだろう。それなのにどうして――。必死に抗議する野中に対し、顧問は言う。「真白と離れて困るのは、お前のほうだ」と。
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この顧問の発言から、野中自身もまた、己の中に眠っている欺瞞と向き合うことになる。それは想像以上に苦しいことだろう。それまでの自分自身を否定し、なにが間違っていたのか、なにが正しいのかを洗い出す行為だから。いっそ逃げ出したくもなるはずだ。それでも野中は逃げ出さず、どうにか答えを見出す。そして、その答えこそが、「わからない存在」とどう接していけばいいのか、につながっている。
多様性という言葉が広がり、社会には実にさまざまな人が暮らしていることが可視化されるようになった。そんな状況下で、でも一体どう振る舞えばいいのだろう……と戸惑っている人も少なくないはずだ。そういった人には、本作をそっと差し出したい。真白と野中の関係に、求めている答えがあると思うから。
文=イガラシダイ
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