
私が50代になって思うのは、自分にはあまり時間が残されていないということだ。人生100年と考えれば折り返し地点、まだ時間はあるのかもしれないが、若い頃のように何も考えず、なり振り構わず何かに打ち込むことは少なくなった。その代わりに増えているのは、ふと立ち止まり、自分の生活に目を向ける時間だ。だから、原田ひ香の新作小説『#台所のあるところ』(文藝春秋)に登場する女性たちに、共感せずにはいられなかった。
本作には、誰かとの暮らしを頑張るうちに自分の気持ちを見失ってしまった5人の女性たちが、再び立ち上がるまでの物語が綴られている。彼女たちが多くの時間を過ごす「台所」は、現時点の生活そのものを表す場所でもある。『三千円の使いかた』でお金の使い方を丁寧に描いた作者が、本作では、料理を作り、食べる風景を通して彼女たちの心に浮かび上がる、それぞれの迷いと決断を綴っていく。作品の中に度々登場する調理を実際に試し、彼女たちの気持ちごと、味わってみた。
続きを読む
●いろいろなことを諦めていた、敦子が作る朝ごはん

引用----
(P.19より引用)
溶けかかったパンを出してトーストし、卵とハムを焼いて中濃ソースをかけて食べた。敦子は目玉焼きに、ご飯に合わせる時は醬油を、パンに合わせる時はソースをかける。冷蔵庫に入れていたコーヒー豆を出して少し丁寧に淹れた。
朝食を終えるころにはすでに、冷蔵庫は「買い直さなければならない」と覚悟はできた。
----

飯盛敦子は、2人の子どもが巣立ち、定年を迎えた夫が海外赴任で出て行ってから、「こんなにもすることがなくなるとは」と時間を持て余しながら暮らしている。思えば、これまで家族に合わせることを一番に優先しながら生きてきた。そんなある日、冷凍庫が壊れてしまう。
続きを読む
海外の映画に出てくるようなステンレス製の大型冷蔵庫に憧れ、購入したこともあるが、中古一軒家への引っ越しで、大きすぎて玄関から入らないことが分かり、諦めてしまった。「あの時、自分は人生のいろいろなことを諦めたのではないだろうか」と敦子は過去の自分を顧みる。そして、壊れた冷蔵庫に入っていた冷凍のパンを焼き、朝食を食べるのだ——。

私自身も、仕事や家族を持つ中で諦めざるを得なかったものが幾つもある。敦子の場合、一度は買ったのに使うことができなかった冷蔵庫がその一つなのだろう。けれども、ライフスタイルが変わり、多くの経験を積んで自分が本当に欲するものが分かるようになった今こそが、それを手に入れるタイミングなのかもしれない。きっと、「これからの自分の人生とは関係ない」などと考えて諦めることはないのだ。
続きを読む
作中で敦子がしていた通り、パンを焼き、目玉焼きに中濃ソースをかけ、コーヒーを少し丁寧に淹れた。すると、自分のために食事を作り、好きなものをひとりで食べる時間も悪くない、と思えてきた。
引用----
(P.52より引用)
今、自分が一番欲しくて必要な冷蔵庫を、大きさや見た目は関係なく、運べるかどうかも関係なく、予算も関係なく、自分の気持ちのまま、選ぼうと思った。
----
敦子が冷蔵庫を選びに行く時の一文を読んだら、自分の心を覗かれたような気持ちになった。私も敦子と同じように、ずっと手に入れたいと思っていたものを、すでに諦めてはいないだろうか。それは、本当に諦めなければならないものだろうか。ずっと欲しかったものが思い浮かぶのと同時に、それが欲しいという気持ちを何十年も押し込めてきたことに気づいた。この小説を読んでから、これからは自分に必要なものだけを選んでいきたい、という気持ちがあふれている。
続きを読む
●不器用な愛情と日々の葛藤が中華鍋に詰まった夕食

引用----
(P.158より引用)
業務スーパーで買ってきた十個入り二百二十四円の冷凍コロッケをざらざらと入れた。小松菜とにんじんが茹だったので、シンクに置いたザルにあけ、水を流して冷やし、水気を絞った。ボウルに豆腐一丁を入れて潰し、砂糖、すりごま、白だしを入れてぐじゃぐじゃに混ぜた。
----

訪問介護の仕事をしながら4人の子どもを育てるシングルマザーの高木花絵。ガス台の左側には、いつも油の入った中華鍋が鎮座している。食べ盛りの子どもたちのお腹を満たすため、業務スーパーの冷凍コロッケや揚げシュウマイなどを揚げるのが日課だからだ。
続きを読む
仕事でくたくたになって帰宅しても、子どもたちは手伝うどころか「おかあさーん、ご飯まだー!?」と急かし、長女の遥花は「やっぱ、今日も揚げ物だ」と嫌味を言う。花絵は言い返したい言葉をぐっと飲み込む。ここで文句を言えば、さらなる口答えが返ってきて家族の空気が悪くなることが分かっているからだ。

揚げ物は、忙しい毎日の中でも手早く安く、ボリュームを出せる献立だ。コンロの上に置きっぱなしの中華鍋や、魚焼き器の網を使って油切りをする姿からは、ひとりで4人の子どもを育てるワンオペ育児の過酷さと、常に時間と戦っている切実さが生々しく伝わってくる。
続きを読む
思春期の娘のトゲのある態度や、自分たちを捨てた身勝手な元夫からの心ない電話に傷つき、すり減っていく花絵。それでも彼女は、焦がしたコロッケだけでなく、白和えや卵焼き、煮物まで何品も食卓に並べるのだ。「文句ばかり言うなら食べるな」と怒りながらも、栄養のあるものをお腹いっぱい食べさせたいという母親としての無意識の愛情が、その行動にはあふれている。不器用で素直になれない花絵の抱える孤独や葛藤に、思わず「よく頑張っているよ」と肩を抱きしめたくなった。
●女性たちの諦めが決意に変わる時を描く
本作には、敦子や花絵のほかにも、モラハラ気味の彼氏との窮屈な同棲生活に悩む20代の会社員、閉鎖的な島の因習に耐えながら5台の冷蔵庫・冷凍庫に食料をため込む女性、都会での生活に疲れ果て田舎で保護犬たちと暮らす新聞配達員など、年代も境遇もさまざまな女性たちが登場する。
続きを読む
まったく交わることのない彼女たちの人生を緩やかに繋いでいるのが、皆がそれぞれの場所で観ている深夜ドラマ「台所のあるところ」の存在だ。画面越しの物語やSNSでの名もなき人々との交流に背中を押されるように、彼女たちは皆、自らの「台所」と向き合うことで、何かを手放し、何かを手に入れていく。自分の人生を取り戻すために。美味しそうな食事の風景とともに綴られた彼女たちの決意を最後まで見届けてほしい。
文=吉田あき
記事一覧に戻る