※本記事は、雑誌『ダ・ヴィンチ』2026年5月号からの転載です。

マスクをめぐる狂騒に踊り、SNSには陰謀論があふれかえったコロナ禍。荻原浩さんの『陰謀論百物語』は、感染症が猛威を振るっていた2021年から中東危機に揺れる25年までに書かれた全7編の短編集だ。どの作品も皮肉とユーモアを効かせ、風刺を交えながら現代を映し出している。
「最初に短編の依頼をいただいた時は、まさにコロナ禍のまっただなか。リアルタイムの話を書こうとすると、登場人物にマスクをさせないといけないし、へたに出歩かせることもできない。でも、そんな時代のこともひとつの記録として残しておきたいと思ったんです。そこで、マスク拒否男とマスク警察が怪獣のように激突する短編を書きました。その後、また依頼された時は、ロシアによるウクライナ侵攻があった頃。今はもう感覚が麻痺していますが、よその国にいきなり攻撃をしかけるなんて、当時は考えられないほどショッキングな出来事でした。そこで盆栽の根元に現れた虫たちが戦争を始める話を書いたんです。この2編を書いたあたりで、一冊にまとめた時のトーンが見えてきました。ただ、その後イスラエル・パレスチナ紛争も起きて、世界情勢がまた変わってしまった。そこで、単行本化に際してよりストレートな戦争ものを書き下ろし、元の短編と差し替えました」
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忖度から不登校ロボまで 身近な出来事をヒントに
どの短編も、着想のきっかけはニュースや身近な出来事。例えば「ハードボイルド・ルール」は、昨今の過剰なコンプライアンスをチクリと刺す一編だ。出所したてのヤクザが、突如厳しくなったコンプラに戸惑うさまをユーモラスに描いている。
「人種やジェンダーに対する偏見をなくすためにも、ポリコレは必要だと思います。ただ、言葉を規制しすぎるのは違う気がして。もちろん誰かを傷つける言葉は変える必要がありますが、その言葉がまた差別語になることだってある。エスカレートしすぎると使える言葉がなくなってしまうし、臭いものに蓋をしてももっと腐るだけ。行き過ぎたコンプライアンスをちょっと皮肉ってやろうと思いました」
「ああ美しき忖度の村」は、タイトルどおり“忖度”がキーワード。「忖度村」のイメージアップを図るため、村議会が開かれるが……?
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「2017年頃、森友学園問題で忖度という言葉が注目を集めましたよね。この短編を書いた23年は、大手芸能事務所に対するメディアの忖度が問題視されていた時期。もしかしたら忖度は、日本人のDNAに刻み込まれた性質、この国の土着的な風習なのかもしれない……なんてことを書いています」
不登校の児童がロボットになって学校に通う「サクマ型ロボット2号」は、新聞記事からヒントを得たそう。
「不登校支援として、子どもがロボットを遠隔操作して授業に参加する取り組みがあると知り、びっくりしたんです。病気などで学校に通えない児童には役立つかもしれませんが、これはどうなんだろう、と。近年は小中高生の自殺が増えているので、作中ではいじめが原因で不登校になった佐久間君を登場させました」
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何をするにもパスワードの入力を求められる「パスワードを入れてください」は、荻原さんの鬱憤がこめられた短編だとか。
「つい一昨日も、ネット通販のパスワード入力に手こずったばかり(笑)。今や何かにつけてパスワード入力が必要ですし、この分だと地球に危機が訪れてもパスワードを打ち直していそうじゃないですか。パスワードに限らず、最近は飲食店でもタブレット注文を求められますよね。デジタル化に後れを取っている人間の怨念を込めました(笑)」
戦後80年、今できるのは戦争を未来に伝えること
中でも荻原さんのお気に入りは、冒頭を飾る「陰謀百物語」とラストを締めくくる「戦争過敏シンドローム」。「陰謀百物語」では、名だたる陰謀論者が百物語のごとく珍説を繰り広げる。
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「陰謀論については、以前から書いてみたいと思っていました。コロナ禍ではワクチンは陰謀だ、アメリカの大統領選では票が操作されたなど、何でもかんでも陰謀と結びつけて語られますよね。ただ、真面目に物申すとダサい、ズレてると言われかねません。そこで、へんてこな陰謀論を語らせ、読者に笑い飛ばしてもらおうと思いました」
荒唐無稽な陰謀論を信じ込むのは、ごく普通の人間。あなたの隣にいるかもしれないし、もしかしたらあなた自身かもしれない。そんな怖さも描かれている。
「SNSが厄介なのは、広く情報を探しているつもりなのに自分に都合のいい主張しか入ってこないこと。それに、今は情報がありすぎて何が本当で何が嘘か、ますますわかりづらくなっています。しかも、陰謀論を信じる人たちを利用しようとする人もきっといる。彼らを集めれば、宗教団体だって政党だってできてしまうわけですから」
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最後の短編「戦争過敏シンドローム」は、今まさに読むべき一編だ。会社員の杉野は、戦争を連想させる言葉に触れると戦時下の幻覚を見るようになる。その妄想は徐々に日常を侵食し、いつしか現実との区別がつかなくなっていく。コロナ禍を描いた短編「モンクコング対ゴネラ2021」の次に収録され、当時を懐かしみながら読んでいると、時計の針が一気に進み、厳しい現実に直面させられる。
「僕らは“マーケティング戦略”“年末商戦”のように、戦争を想起させる攻撃的な言葉をよく使いますよね。言葉のあやかもしれないけれど、至るところに戦争がある。それに気づいたらどうなる? という話です」
やがて杉野は、祖父が防空壕に遺したノートを発見する。「くれぐれも忘れぬよう」――そこには80年前の戦争体験が綴られていた。
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「軍備拡張は必要だという人も、戦争は絶対反対という人も、実際の戦争は知りません。僕も直接経験したわけではないけれど、父親は戦争に行き、母親は空襲を受けた世代。戦場に赴いた方から、生の声を聴いたこともあります。ですが、戦争経験者はもう少なく、彼らの話を聴いたことがある人もいずれいなくなります。すでに世界も日本も、太平洋戦争のことを忘れかけていますよね。そんな中、僕にできるのは『かつてこういうことがあったんだよ』となるべく公平に伝えること。おじいちゃんが昔話をするように、僕が知る限りのことを書いておこうと思い、最近は他の作品にも戦争の話を織り交ぜています。『それを知ってどうするんだ。ただ戦争反対と言っても仕方がないだろう』という意見もわかるけれど、戦争なんか起きてもいいことなんてないと伝えておきたくて。『戦争やむなし』という世論に傾きかけているけれど、本当に大丈夫? と。それを専門書ではなく、普通の人が読む小説に書いておくことにも意味があると思っています」
この短編に限らず、どの作品にもさりげなくメッセージが仕込まれている。無邪気に笑っていると芯を食った一文にグサッと刺され、真顔に引き戻される。
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「ストレートに書いても『お前に説教されたくないよ』と言われてしまうし、僕にそういうことを言う資格があるかどうかもわかりません。だから、その前段として忖度村がどうの、おっぱい星人がどうのと書いているわけです(笑)。メッセージはこっそり忍ばせてあるだけなので、ただ面白がってもらえればそれで十分です」
この作品を、面白がれる世の中であってほしい。今はただ、そう願わずにいられない。
取材・文:野本由起 写真:小嶋淑子
おぎわら·ひろし●1956年、埼玉県生まれ。広告制作会社勤務を経て、コピーライターとして独立。97年、『オロロ畑でつかまえて』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2005年『明日の記憶』で山本周五郎賞、14年『二千七百の夏と冬』で山田風太郎賞、16年『海の見える理髪店』で直木賞受賞。近著に『笑う森』『我らが緑の大地』など。
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『陰謀論百物語』
(荻原 浩/文藝春秋) 2200円(税込)
蝋燭の淡い光で、ぼんやりと浮かびあがるいくつもの顔。彼らが語るのは、世にはびこる陰謀論の数々。ホワイトハウスの地下にあるとされる「ブラックハウス」から人間社会に紛れ込んだ「おっぱい星人」まで、奇天烈な説が語られるが、その背後には陰謀論を広めようとする影の組織がいるとかいないとか……? 「陰謀百物語」をはじめ、過剰な忖度やコンプライアンスに縛られた現代社会を映す全7編の短編集。
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