
物価がとめどなく上がっている。外食を控える人も少なくないかもしれない。確かに、コスパを考えたら自炊に勝るものはないし、徒歩圏内のスーパーやコンビニにも、インスタントで美味しい商品が常にあふれている。
そんなふうに食欲が大人しく飼い慣らされた今だからこそ読んでほしいのが、世界中の高級料理を食べ尽くした村上龍自身の体験をもとにした(と思われる)32篇の掌編集『村上龍料理小説集』(講談社)だ。
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「心がさわぎ、秘密が生まれ、罪の意識を迫るような、贅沢で、エロティックな32皿の物語」とあらすじにあるように、フィクションではありつつ、村上龍自身の体験を語ったような生々しい手触りを楽しむことができる作品集である。
本作に収められているのは、いわゆる「読み進めるうちにむしょうに腹が減ってくる」タイプの料理小説ではない。食の概念を揺さぶるような、とにかく奇妙すぎる話の玉手箱なのだ。
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筆者が特に印象に残っている1篇を紹介したい。
主人公は、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジの端の倉庫街にあるマッサージ・パーラーに来ている。そこで以前10日ほど通い詰めて治療してもらった歯医者に出会う。売春街で出会ったことにバツが悪そうな歯医者だったが、ことを終えて店を出ると、彼は外で〈私〉をじっと待っている。歯医者は主人公の〈私〉に対して、どうしてこの場所(マッサージ・パーラー)を見つけることができたのかと質問する。歯医者に言わせると、この場所を自力で見つけ出すには超能力がないと無理らしいのだ。そうした経緯から、歯医者は、超能力は訓練次第で身につけることができるという話を始める。
引用----
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「左の奥歯、専門的には大臼歯というんですが、ここが重要なんです、この歯の裏側に脳の視床下部にダイレクトで通じる神経線維が走っているんです、その神経線維を特殊なやり方で刺激してやるだけでいいんです」
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しかも、神経線維を直接刺激するには、大臼歯に虫歯ができて大きな穴が空いていないとならない。
ここで料理が出てくる。歯医者は10年ほど前に京都のスッポン料理屋で、スッポンのヌルヌルするような爬虫類の肉を穴の空いた歯で噛んだのだそうだ。スッポンの肉特有の原初の動物の味が神経線維を刺激し、脳が掻き乱され、眩暈を感じてしまう。その時、後頭部の頭蓋の裏側あたりにスクリーンがスルスルと降りてきて、ある特定の未来を見ることができたのだ。歯医者は未来を見るために、スッポンを何百となく食べたらしい……。
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なんとも不思議な話だ。それでいて、自分がスッポンの肉を噛みしめたような奇妙な興奮が生々しく迫ってくる。
スッポン、白子、フィジーのバニラアイスクリーム、响螺(ほら)の切り身、山椒の実を混ぜた炙り味噌、鹿の肉を果汁で煮込んだシチュー……。香港からブラジル、ヨーロッパまで、あらゆる土地を訪れた主人公が出会う食材や現地の人々との対話からは、抗いがたい欲望が掻き立てられる。
読者は、読み進めながら、異国で非日常な体験をしたような満たされた感覚を味わうことになる。ここで満たされたのはいわゆる食欲ではなく、いうなれば「肉欲」に近い何かであるように感じられてならない。
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まだ足を踏み入れたことのない料理屋の暖簾の奥に、思いもよらない幻惑的な物語が広がっているかもしれない……。コスパを考えて外食に尻込みしてしまう今だからこそ、奇妙で魅惑的な物語を求めて、飲食街に彷徨いこんでみるのもまた一興ではないだろうか。
文=奥井雄義

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