『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第6回【全7回】
戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

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季節はずれの危ない食べ物には手を出さない
徳川家康は食べ物には火を通し、温かい状態で食べていたという。暑い夏ですら生姜入りの煮込みうどんを食べていたようだ。体を冷やさないのが良いというのは漢方の常識であり、当然、家康も知っていただろうが、それを実践し続けるのは難しい。ちなみに、食に関しては、『名将言行録』にこんなエピソードが載っている。
秋深い十一月に、織田信長から立派な桃が一籠贈られてきた。季節外れの珍味である。ところが家康は手に取らなかった。家臣が訝しんで理由を尋ねると、「私は桃を好まぬわけではないが、信長公のように大身ではない。もし小身の私が珍しい物を好めば、百害あって益なしだ。無益なことに財を費やしたら、ついには士卒を養えなくなる。志ある者は珍物を好んではならない。とにかく軍備を整えることが大切。信長公は大身ゆえ、珍物を好まれるのだ」と言い、桃をすべて家臣に分け与えてしまったという。
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せめて、一つぐらい食べてもよかったはずだが、おそらく家康は「季節はずれの危ない食べ物には手を出さない」という慎重さがあったのではないかと思う。
健康で長生きすることが勝利の秘訣
いずれにせよ、こうした食生活が徳川家康の長寿に貢献したのは間違いないだろう。
また、家康は正室の築山殿の死後、ずっと正室を持たなかったが、のちに豊臣秀吉の妹・朝日姫を後添えとした。しかし彼女は四十八歳で亡くなってしまう。その後、家康に正室はいなかったが側室は多く、年齢の高い出産経験者が多数を占めた。しかし晩年は好みが変わったのか、十代の側室も何人かいて、家康との年の差は最大で五十三歳ほど。
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ちなみに、家康が秀吉と同じ年の六十二歳で死んでいたら、どうなっていただろうか。江戸幕府の創立年に没していたことになるので、豊臣家を滅ぼすことはできず、凡庸だとされていた息子の秀忠もまだ将軍に就いていない。となれば、徳川幕府は二百六十年も存続したかどうかは極めて疑わしいだろう。また、同年に生まれた家康の末っ子、頼房がのちの水戸藩の祖となることはなく、徳川光圀(水戸黄門)もこの世に誕生していないかもしれない。
逆に、秀吉が家康と同じ七十五歳まで生きていたとしたら、跡継ぎの秀頼は二十歳近くになっている。五歳違いの家康(七十歳)があと残り五年の寿命で天下分け目の合戦に勝ち、豊臣家を滅ぼすのは難しく、豊臣の時代が長く続いていたかもしれない。そういった意味では、健康で長生きしたことが、家康を戦国の覇者にしたともいえるのだ。
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