『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(河合敦/ポプラ社)第3回【全7回】
戦うだけが仕事じゃない! 戦国武将も、現代人と同じ悩みを抱えていた。武田信玄は浮気を弁解、織田信長は正倉院の宝物である香木を切り取り、伊達政宗は恋に泣き、高山右近は地位よりも信仰を優先し、茶の湯で政治を操り、南蛮料理に夢中になり、人身売買で財力を築く。戦場以上に熱い、濃厚なドラマを暴く。戦国武将の仕事からオフタイムまで、知られざる素顔をのぞく1冊、ぜひお楽しみください!

子供の非行に悩んだ伊達政宗
■一人息子を人質に差し出す
伊達秀宗は、政宗にとっては待望の長男であった。ただ、秀宗は正室・愛姫の子ではなく母は側室だった。愛姫は男児に恵まれず、庶子の秀宗が政宗の後継者となった。
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文禄三年(一五九四)、秀宗は政宗に伴われ豊臣秀吉に謁見した。主君に息子を対面させるというのは、嫡男であることを正式に主君が承認することを意味していた。
なお、このとき政宗は、一人息子にもかかわらず、「秀宗をお預けしますので育ててください」と秀吉に頼んだ。つまり、人質に差し出したということになる。
翌年、秀吉は甥で関白の秀次を謀反の疑いで切腹させた。このとき、秀次と親しかった政宗も処罰し、家督を秀宗に譲らせようとしたという。徳川家康の取りなしで事なきを得たが、あやうく引退させられるところだったのだ。
秀吉はやがて、秀宗を元服させて猶子とし、「秀」の一字を与えて、我が子・秀頼の側近に育てようとしただろう。そのまま何もなければ、豊臣政権下で秀宗は仙台藩二代藩主となり、秀頼を支える重鎮になったはず。ところが慶長三年(一五九八)に秀吉が没してしまい、さらに翌年、政宗と正室の愛姫の間に忠宗が誕生したのである。結婚してから二十年以上たっており、おそらく政宗にとって思いもしない出来事だったろう。
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■伊達政宗は教育パパ
伊達忠宗が無事に成長するかどうかわからないので、秀宗の嫡男の地位がすぐに揺らいだわけではないが、微妙な立場になったのは確かであった。
翌年の関ヶ原の戦いの直前、大坂城にいた十歳の秀宗は、西軍に身柄を拘束され宇喜多秀家に預けられたが、戦いのあとに解放された。慶長七年(一六〇二)、秀宗は伏見城(京都市伏見区)で徳川家康に謁見し、そのまま人質として江戸城へ入った。
政宗は、秀宗の傅役・大和田忠清に「十一箇条の掟書」を与えたが、これは秀宗の教育方針が書かれたもの。
「手習い・読み物を不断に指南せよ、外出は月に一度ほどとせよ、鷹狩りは無用にせよ、鉄砲は無用にせよ、花火も無用、見物に出ること無用、大酒は堅く停止する、安易に人と親しくなってはいけない」(宇神幸男著『シリーズ藩物語 宇和島藩』現代書館)
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政宗の教育パパぶりがわかる。さらに政宗は、有能な家臣十五人と側近二十九人を秀宗につけた。そして慶長十三年(一六〇八)には、家康の命で秀宗は徳川の重臣・井伊直政の娘・亀姫を正室に迎えた。
さて、一方の忠宗は無事に成長し、慶長十六年(一六一一)には江戸城で元服、将軍・秀忠から「忠」の一字を賜った(それまでの幼名は虎菊丸)。この段階で十一歳の忠宗が政宗の跡継ぎとなり、秀宗は嫡男の地位から転落したのである。側室の子とはいえ、むごい措置であった。
政宗は大坂冬の陣に秀宗を伴い、戦う前に家康の重臣・本多正純に「秀宗は秀吉の猶子なので跡継ぎにできないため、私が軍功をあげたら彼を大名にしてほしい」と要求した。政宗が強気に出たのには訳があった。関ヶ原の戦い前、政宗は家康から〝百万石のお墨付き〞をもらい、会津の上杉景勝が徳川の領地を攻めるのを東北で防いだ。ところが家康は戦後、その約束を守らなかった。だからその代償として、秀宗の大名取り立てを願ったというわけだ。
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そこで家康は慶長十九年(一六一四)、秀宗に伊予宇和島(愛媛県宇和島市)十万石を与え、しかも国持大名の家格(一国を有する大名の格式)を認めたのである。
■教育パパ政宗・五箇条の訓戒
翌慶長二十年(一六一五)、伊達政宗は有能な家来(俗に五十七騎と称する)を長男の秀宗に付随させ、伊予の板島丸串城(宇和島城)へ入れた。
このおり、教育パパの政宗は秀宗に五箇条の訓戒を与えている。
「一、 両御所(家康、秀忠)に筋道を通すことはもちろん、そのことを決して忘れてはならない。
二、家臣を大切にするよう。但し、罪は決して許してはいけない。
三、常に弓矢(武芸)を心がけるのはいうまでもない。
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四、学問のことは口頭で伝える。碁や将棋(などの教養)のことも。
五、家臣を思いやり、その心を聞き分けること。」(前掲書)
ただ、本来なら自分が仙台六十二万石の当主になれるはずだったので、宇和島行きは、二十六歳の秀宗にとって不本意だったかもしれない。
■息子を勘当する
宇和島入りの際、伊達秀宗は、準備金として父の政宗から六万両(異説あり)を借りたが、これを返済しようとしなかった。重臣たちも、親子なので金を返す必要はないとか、長期で返済すればよいと考える者も多かった。
だが家老の山家清兵衛公頼は、宇和島十万石のうち三万石を政宗の隠居料として返済にあてるべきだと主張した。清兵衛は生真面目で政宗の信頼が厚く、秀宗に浪費を諫言したり、政宗に秀宗の行動を報告したりしたので、秀宗は清兵衛を煙たがった。
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そんな清兵衛が元和六年(一六二〇)六月三十日に家族もろとも屋敷で惨殺された。事件の真相は闇の中だが、大坂城の石垣工事をめぐって清兵衛と揉めた桜田元親(玄蕃)の手の者が犯人だったという。だが、玄蕃は処分されなかったので、どうやら清兵衛殺しは怨恨による犯行ではなく、主君・秀宗の上意討ち(主君の命によって罪人を討つこと)だったようだ。しかも秀宗は、この騒動を政宗や幕府に一切報告しなかった。
このことを政宗が知ると、秀宗の重臣・桑折(石母田)景頼に難詰の手紙を送り、秀宗に勘当を申し渡した。さらには幕府に「宇和島十万石を支配する器量はないので、秀宗から領地を召し上げてほしい」と願い出たのだ。
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幕閣たちは仰天し、老中の土井利勝や秀宗の義父・井伊直孝は、逆に政宗をなだめるほどだった。こうしたこともあり、秀宗は幕府にお咎めを受けず、政宗も勘当処分を解いた。一説には、政宗が激怒して幕府にねじ込んだのは、秀宗の失態を不問に付すための演技ではなかったのか、という説もある。策士の政宗ならやりかねない。
■仲良くなった親子
晩年の伊達政宗・秀宗父子は、たいへん仲が良かったという。寛永七年(一六三〇)から寛永十年にかけてと推定される政宗の秀宗宛ての書状には、「私の秘蔵の香木『柴舟』と大切にしている茶入『小茄子』をお前にあげよう」と記されている。この「柴舟」と「小茄子」は現存している。
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余談だが、山家清兵衛公頼を殺害した桜田玄蕃をはじめ、関係者たちは次々と不慮の死を遂げ、天変地異や飢饉が宇和島の地を襲うようになった。秀宗も中風に倒れ、その長男・宗実は身体が弱く嗣子になれずに三十三歳で没し、二代藩主の期待がかかった次男・宗時も三十九歳で亡くなってしまった。
続く変異に恐れおののいた秀宗は、承応二年(一六五三)、清兵衛を「和霊大明神」として祀る和霊神社を創建した。神社の祭りは「和霊大祭」と呼ばれ、いまも毎年盛大に挙行されている。
政宗のような教育熱心な戦国武将は少なかったが、なかなか思ったように子が育ってくれないケースは多かった。
いつの時代も子供の教育は難しいものだ。だから我が子を名僧に委ねて育てるのが一般的だった。代表的な例として、伊達政宗と虎哉宗乙、上杉謙信と天室光育、今川義元と太原雪斎などがいる。
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