
日本は味噌汁の国である。そのスープは文字通り我が国独自の料理であるとともに、生温かく複雑な味わいで中に入っているモノが透けて見えない――まるで日本の社会そのものなのだ。
村上龍氏が『限りなく透明に近いブルー』(講談社)でデビューした1976年からちょうど50年の節目の年、今あらためてすすめたいのが久しぶりに読み返してみた『イン・ザ・ミソスープ』(幻冬舎)だ。
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読後感は変わらなかった。後味は、苦い。言葉を選ばずに言うのならば、ぞっとする感覚と不快感が残る。それでもなお、読んでほしいと思った。
その理由は二つある。まず恐怖小説としてのスリルは今でも通用する間違いないエンタメだからだ。そしてもうひとつは、四半世紀前に書かれたこの物語が令和の私たちの日常と地続きで、現在の東京を描き出しており、私たち自身を驚くほど正確に映し出しているからだ。
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物語の舞台は“日本の夜”を象徴する街のひとつ「歌舞伎町」。そこは華やかだが危険な場所だ。ケンジはそんな歌舞伎町で、外国人向けの風俗案内の仕事をしていた。
ホームレスや高校生が殺されたニュースが流れていたとある年末、ケンジの前に現れたのはアメリカからビジネスでやってきたという男・フランクだった。そのアメリカ人の顔は奇妙な肌に包まれていた。そして話す内容は流暢ではあるものの整合性がなく嘘しか言っていないようだった。
ケンジはフランクの正体不明さが引っ掛かり、いつしか恐怖を覚える。そして彼は、何の確証もないにもかかわらずフランクが歌舞伎町での殺人にかかわっているのではないか、と考えるようになる。彼の財布にはまるで血の跡のようなどす黒い染みのついた紙幣が入っていたのだ。ケンジは、ただフランクと会話をしているだけで、なぜか言い知れぬ恐しさに飲み込まれていく。また彼の恋人といる最中に“まるで今自分をフランクが見ている”ようにも感じる。そして彼の家のドアには人の皮膚のようなものが貼り付けてあった。
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サイコホラーのようなストーリーは爆発的な展開を見せる。未読の方は、読んでいてじわじわ追い詰められてからの声が出そうになる展開を味わってみてほしいと思うのだ。
フランクが何者なのか、ケンジはどうなるのか、大晦日で終わりを迎える物語は、すべて説明はしないものの、とてもハッピーな新年を迎えられる雰囲気ではない。
ただそれは本作の魅力のひとつである、現実との地続き感であり、現代との接続だ。
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歌舞伎町は今も昔も雑多である。ある程度の年齢の方ならご存じだと思うが昔の歌舞伎町の得体の知れなさは今の比ではなかった。それこそインターネットで情報を得ることもできなかった時代は、簡単に足を踏み入れていい場所とは思えなかった。そんな歌舞伎町を舞台に描かれる、“金”で“色”を求める欲望にまみれた物語。そしてそれは、今も変わってはいないのだ。
色と欲にまみれた歌舞伎町には、もうひとつの側面がある。そこにはホームレスや、家出をしたティーンエイジャーのような弱者たちが集まって来て身を寄せ合っているのだ。そして時には危険な目にあうのだが。四半世紀経って、巨大な商業ビルが建ち、小奇麗になったその場所には、依然として寄る辺のない若者たちが集まっている。本作に限らず長い間さまざまな物語で語られてきた。にもかかわらず、抜本的に問題を解決できずにいる。
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そして問題は、その状況を、私たちもまた問題とも思わなくなっていることではないか。
フランクは「日本に来てミソスープを飲みたかった。でも今はミソスープのなかにいるとわかる」と言う。
味噌汁の中にいると味噌の色で周囲は見えないが、しかし旨みと甘みを味わうことができる、そんな生温かいスープのような社会で私たちは生きている。
見ようとしなければ何も見ないでいられる、無責任で心地良い社会。だがそれでいいのだろうか。本作は、読者に突きつけてくる。
文=古林恭

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